3.11という日

7年前の今日。

ちょうど仕事が休みで、TVみていた私は

速報ニュースが流れる画面から目が離せなかった。

海水が押し寄せる映像。

田んぼや家や車がどんどん水に飲み込まれていく映像。

逃げる車や人が画面の端っこに映る映像。

小さな四角の枠の中で映し出される映像は、

匂いもしなければ音もしない、

世界のどこかの知らない場所の映像みたいで。

小さな四角の中で信じがたい映像が流れていくけれど

その移りゆく映像をずっと見ているけれど

その状況を頭が理解できないまま

ただただぼーっと

口をポカーンと開けて

何もできずに目が離せず

ただただ見ていたのを鮮明に覚えている。

その数年前の福岡の地震の時は、

通勤中大きな揺れを経験し、

それまで普通にあったものが壊れ、

普通に動いていたものが止まり、

普通に使えていたものが使えなくなった。

でも、東北の地震は、

それまで普通にあったものがなくなった。

経験した事ないことは想像すらできない。

どれだけ辛いか、

どれだけ悲しいか、

どれだけやり場のない怒りをもったか、

私が経験したことのないことを現在でも多くの人が経験しているんだろう。

節電だ、募金だ、献血だと騒いでいたのはちょっとの間で、

遠い場所ほどいつもの生活に戻るのも早かった。

 

今日、美容室で手に取った雑誌のとあるページ。

お掃除の特集の中に、禅の教えやお寺で修行している方のお話ページ。

禅の教えの言葉がたくさん載っている中、目が止まった言葉。

最近、事あるごとに頭に浮かぶ『足るを知る』という言葉がここにも。

その中の一文に心が止まった。

「生きていくために必要なものは多くなく、むしろ掃除したり食事を作ったり、日常の豊かさを知ることによって、心は満たされるもの。」

きっと物を欲しがるうちは、まだまだこの『日常の豊かさ』をわかってないのかもしれないなーって思った。

頭では「命さえあれば」「いつもの日常を送れる」だけで「ありがたい事」だと言葉で覚えていても、

きっと理解はできていないんだと思う。

このページに今日出会ったことは、自分の日常を振り返り、有難いということとはなにかを考えるためかもしれない。

 

お気に入りのノートに書き写しておこう。

 

亡くなった方のご冥福を祈り、生活している方々の心の平穏を祈り、国会で騒いでいる問題よりもっと取り組む問題があるだろうと呆れる気持ちは置いといて、今ある生活に幸せという気持ちを常にセットで過ごせるようになろうという気持ちを胸に、終わりにしたいと思います。