国宝をみて(喜久雄)

父親が雪の降る中死んでいく姿を見て
喜久雄は『美しい』『綺麗』と感じたんだと思う。
映画を2回観て、そう思った。
1回目はただただ「親の死に目を目撃してなんて…辛くてトラウマになる人生になるだろうに」って思った。
場面場面で、“白いもの”が空から降ってくる映像が出てくる。
“白いもの”が雪なのか紙吹雪なのか。
喜久雄の人生は、私には想像がつかない。
産みの親は原爆症で亡くなり、父の死を目撃し、引き取る親戚もおらず赤の他人に引き取られ、知らない土地でも生活が始まり、それ以降も私が経験したこともない(ありがたいことに経験せずにすむところに生まれた)ことばかりな人生の喜久雄。
やさぐれず、堅気の生活ができたのは『芸』のおかげだろう。
喜久雄には『芸』しかない。
「死神さんと契約したんだよ。なんにもいらないから、歌舞伎をもっと上手にしてくださいって」(セリフ違うけど、そんな感じのことを言った)
何にもいらない。
喜久雄には何もなかった。子供もできたし、恋人の花江もいたが、喜久雄にとってはどれも芸以上のかけがえのないものには感じられなかったんだと。
俊介に「守ってくれる血が欲しい」と泣いた場面が、一番脳裏に残っている。
緊張と恐怖に押しつぶされそうになっている気持ちが、吐きそうなくらい伝わってきた場面だった。
俊介はきっと、血よりも芸が欲しい と思っていた。
芸を持っている喜久雄が羨ましかったと思う。
お互いが、お互いを羨ましく思っていた。でもそこには妬みという汚い感情は私には見えなかった。
男同士だからだと思った。これが女同士だと、こうも友情関係を継続し続けることはなかったと思う。
恋人を取られた時点で、縁を切ってると思う(笑)
「芸で勝負するんやで」という師匠の言葉は、きっと呪いのように喜久雄を苦しめたのではないか。
『芸』しかない。たしかにそう思って覚悟を持っていた喜久雄だが、芸を披露する場さえも与えられない日々は本当に苦しかっただろう。
芸さえ披露できれば…と悔しい毎日だっただろうに、辞めずに、腐らずに、日が当たる場を求めていた。
待っていてもそんな時が来ないと追い詰められていたから、自分に好意を寄せている彰子に手を出した。
彰子に愛情はない。でも、それしか自分が這い上がる方法がなかった。
でもそれも上手くいかず、歌舞伎の世界を追い出された2人は、ドサ周りをする生活になる。
支える彰子。でも喜久雄の彰子に対する愛情は、映像からは見えない。
そりゃ、彰子も「どこ見てんの」と愛想つかして出ていくわ。
「どこみてるか」は映画の後半にも出てくる。
また俊介と舞台に上がることになり舞台に寝転がり、天井の鶴の絵をみて「いつもあそこから何かが見てるよな」「なんやろな」と話す2人。
映画のラストの場面で紙吹雪が降ってくる舞台で、天井を見上げる喜久雄。
何度も出てくる“白いもの”が降ってくる映像。
紙吹雪なのか、雪なのか。
自分の『美しい』という境地に辿り着いたという意味なのか。
行く通りにも思いを馳せることができる圧巻のラストだった。
喜久雄の晩年は、どんな晩年になるのだろうか・・・。
人間国宝になっても、万菊のように一人さみしく、ボロボロの“きれいなもの”が一つもないアパートの部屋で幕を閉じるのだろうか。
丹波屋が面倒を見てくれるのか。
どうか、どうか、誰かが傍で看取ってくれる幸せな最後であってほしいと強く思った。