国宝を観て(花江)

一緒に、背中に刺青入れて、追いかけて大阪にきて、飲み屋で働きながらずっとそばにいた。

でも「結婚しよう」という言葉を断り、帰る背中を見ながら泣いていた。

なぜ断ったのか

なぜ泣くのか

なんで結婚しないのか

泣くなら断らなかったらいいのに。

好きで追いかけてきたのに、結婚すると人気がでないとか結婚すると芸に集中できないとか、喜久雄のことを考えて結婚を我慢した。

と、1回目を観た時は思っていた。

が、2回目を観て私想像は変わった。

歌舞伎にのめり込んで、芸の上達に夢中な喜久雄をずっと観てきて、結婚しても芸が一番で、自分よりも芸を愛す喜久雄は変わらない。

自分を見てくれない。

富士見屋の親方が娘の彰子に「こいつは芸のことしか見てない。お前のことはこれっぽっちも見てないんだ」と言ったセリフがここにハマった。

春江は、喜久雄がずっと自分のことを見てくれてないということは感じていたんだ。

結婚しても寂しい気持ちは無くならないし、ずっと我慢し続けないといけない。自分を見て欲しい愛して欲しいと求めてはいけない。

結婚したら抑えている欲がでてしまう。それなら一番近くにいる大ファン、パトロンでいるほうを選んだんではないかと。

朝、帰っていく喜久雄の背中を見ながら流した涙は、大好きな喜久雄を自分から手放した辛さだったのか。

俊介が喜久雄の舞台をみて、途中で劇場をでて泣いている姿に、春江は何を感じたのか。

「わかるよ」とは何をわかるのか。

どんどん芸を吸収して成長する喜久雄への嫉妬、置いていかれる不安、追いつけないという恐怖、知らない人になっていくような不安だったのか。

逃げ出したいけど逃げ出せない辛さをずっと感じていた俊介なのではないだろうか。

親も認める自分の方が芸が劣っているということ。一緒に練習しても追いつけない相手。

でも自分は本家の跡取り息子。辞めるわけにもいかない。同じ舞台に立てば観客にも自分の方が芸が劣っていると思われているだろうという恐怖。それを一生、一生感じ続けて自分は歌舞伎をやっていかないといけないというプレッシャー。

きっと同じ舞台に立ちたくない、喜久雄が歌舞伎をやめればいいのに、初めから父親が引き取らなければよかったのに、きっとそんなことを思ったと思う。

でも喜久雄のことは大好きで、一緒に頑張ってきた兄弟のようなもので、ずっとそんな気持ちを戦ってきたんだと思う。

自分の中で自分の気持ちと戦ってきたけど、代役の舞台をみて芸の素晴らしさをみて、頑張ってきた気持ちの糸がプツッと切れたんだと思う。

逃げる勇気もなかったと思う。でもそこに春江が「わかる」と言ってくれた。芸を磨くため環境を変えたい俊介の手を引いて、連れ出してくれた。

春江はなぜ俊介の手を引いて一緒に姿を消したのか。喜久雄にはもう自分は必要ないと思ったのか。俊介の気持ちが痛いほどわかって同情したのか。元々、この2人は惹かれあっていたのか。

あんなに一途に喜久雄を思っていたのに。自分の求めてくれる相手、自分が誰かに必要とされている安心、自分が誰かのためになっているという喜び。それを感じさせてくれる相手が俊介だったんだろうな。

失踪から、子供を連れて帰ってきた俊介と春江。母親はどんな気持ちで迎え入れたのか。本当なら家柄のいい相手と結婚していただろう息子が、どこの馬の骨かわからない女と孫を連れて帰ってきた。そんなことよりも、歌舞伎の部屋を存続できるという喜びと安心が勝ったのだろうな。

当たり前のように、親方とおかみさんが生活していたリビングにいる春江と子供。私はその場面にとても違和感を感じてしまう。

それを目にする喜久雄はどんな気持ちで、自分の家族団欒を捨てた男に見られる春江はどんな気持ちなんだろう。

多くを語らない春江。

この人も辛い人生を送ってきたんだろうし、落ちぶれていく愛した男を見るもの辛かっただろうし、何も助けてあげれないことも辛かったのではないだろうか。でも俊介の嫁となった自分は何もできない。子供のために『いい嫁』でいなければいけなかっただろうし、『いい母親』でいなければならなかったんだろうな。

春江に対しては

1回目を見た後は、ひどい女だ。喜久雄が可哀想だ。

2回目を見た後は、この人もつらい、切ない人生だ・・・。

3回目を観たら、また変わるだろうか。

映画にはない場面がある原作を読んでみたいと思う。映画ではわからない春江のこと(春江以外も)がわかるかもしれない。