「細胞レベルで嫌い」は理由がなくても正しいと思うことをつらつらと書いてみた

なんだか私、いいこと言った!と思った自分の発言。

友達がこんなことを呟いてた。

わかるー!と返信して、結論的に私が言ったのが、

 

自分で読み返して「うん、本当にそうだよな」と自分で納得。

 

私だけじゃないと思うのだけれども、小さい頃から「みんなと仲良くしなさい」とか「人をむやみに嫌いと言っちゃダメ」とか「人の良いところを見つけて尊敬しなさい」とか言われて育った人は、「人を嫌いだと思う自分が、人間としてダメなやつ」と思ってしまうところがあるのではないかと思うのです。

でも人間は完璧でもなければ仏様でもないので、番人を同じように好きになるということは無理なことだし、人それぞれ好みというものがある。世の中も私たちの生活も人間の人生自体も、好き嫌いという統一できない感性で成り立っていると思う。好き嫌いがあるから経済が回ってるし、好き嫌いがあるから人類が繁殖し共存できているんだと思うのです。

で、その好き嫌いには二種類あって、

理由のある好き嫌いと理由のない好き嫌いだと思うのです。

前者は、顔が好きとか猫背だから嫌いとか。

「◯◯だから」ときちんと理由が言える好き嫌い。

だとすると、嫌いな人に対しての理由がなくなったら「嫌いではなくなる」んではないかと思うのです。

「嫌い」が解消すると「好きになる」のではなく、その間に「嫌いではない」という枠が存在する。

好きとか嫌いの違いを

「興味がない」→「嫌い」→「嫌いではない・好きではない」→「ふつう」→「好き」

だと私は思っているんだけれども。

私は会話の中で、「特別に好きでもなければ嫌いでもない」を「ふつー」とよく言う。

「〇〇好き?」と聞かれた時に「ふつー」と答えると

さも興味がないそっけない返事ととらえられて、相手の空気が嫌な感じになることがあるんだけれども、

私にとって真面目に答えた答えが「ふつー」なので、悪気は一切ないのです。

あ、これは食べ物に対しての返答に使うと「嘘でもそこは「美味しい(好き)」って言うところやろー!」と非難されることもある。ふつーは「まずい」ではないのに、まずいって言ってるようにとらえられるのです。困ったもんです。

話を戻して…

とにかく、嫌いな理由が消えれば「嫌いじゃない」になる嫌いは、まだ自分でコントロールができる嫌いってことで、「好きになろう」という努力をすれば救えるのです。

それに対して後者の「嫌い」は、もうね救いようがないのです。

どんな努力をしても、その努力が水の泡になるだけで、その努力をするくらいならその労力を他に使った方が、その時間をもっと幸せなことに使えるよねって話なのです。

「よくわかんないけど嫌い」の「よくわかんない」という理由は、立派な理由なのだと思うのです。

「よくわからないけど」「なんとなく」は言葉で説明できないのです。

子供の頃に「なんとなくじゃわからないでしょ!ちゃんと説明しなさい!」と怒られたこともありましたが、

子供の頃は単にボキャブラリーが少なくてうまく説明できないだけですが、大人になっての「なんとなく」は本当の「なんとなく」で、完成の違う人に説明しようとしても分かり合えるはずもなく、同じ感性の人ならうまく言葉にできなくても「なんかわかるぅー!!」で済むことなんですよね。

 

「なんとなく嫌い」を「生理的に嫌い」としか言いようがなく、生理的にってことは生物的に立証されていることなんだと思うし、理由のない「生理的嫌い」は人間だけでなく他の動物にもある感情?で、動物は全てにおいて「生理的嫌い」「生理的好き」で生きているだけで、自分に素直に生きているってことなんじゃないかと思うと、やはり動物や昆虫という人間以外の生き物は、頭でうだうだ考えずに本能に従って生きているということはストレスフリーの生き方をしていて、ストレルフルな人間のお手本になるじゃないか!っていうところにたどり着くのです。

そんなことは後付けで、

「生理的に嫌い」は、遺伝子レベルで嫌いってことで「遺伝子レベル的拒絶」とはうまく言ったものだ!

と自画自賛しておりました。

 

有名な誰かのブログか投稿記事に

「嫌い」=「悪い」って思うから苦しくなるんだって。

好きがあるんだから嫌いがあってもいい。

嫌いも、人間に初めからある一つの感情だから嫌いって思ってもOKなのです

このレベルの「嫌い」になると、無理に好きになろうとすること自体がストレス!

 

ということで、

遺伝子が拒絶していることは無理に受け入れようとすると死につながる危険な行為なので、今後も自分の内なる声に正直に生きていこうと思ったのでした。

そんな感じでヨーコは今日も元気に生きてます。